2つの私的『船場』リポート。

宮本又次さんの『船場』がようやく一巡。


間に、山本博文さんの江戸本もあったけど、
山崎豊子さんの船場もの、例えば『ぼんち』『しぶちん』『花のれん』を
挟んだので、情景が想像しやすくて反復横跳び的に前に戻ったり
思わず時間が掛かってしまった。


後半に、あの人に報告せな!と思ったことがふたつ。
どちらも抜粋させていただく。


ひとつめ、彼女へ報告。

第12章 船場のうつりゆき
二 大阪弁と船場弁 より
 いま万才や喜劇で大阪弁が広く一般化しているが、それは本当の大阪弁ではないという。本当の大阪弁は船場言葉だという。この船場弁にも北船場と中船場と南船場があって少しずつちがう。淡路町から南久宝寺町あたりまでの中船場の船場言葉がもっとも代表的だといわれている。「申しやす」とか、「ござります」とか「ごわす」とか、「ごわへん」とか、いう感じの言葉が大きな特色をなしていた。上品で鄭重という点に特徴があって、格式と気品とをそなえていた。
『船場』(P446 ミネルヴァ書房)


現在、南船場は地名に残っているけれど、
(ミーツでもよく特集した)
当時は「北船場」「中船場」「南船場」「下船場」などと
エリアを呼びあらわしたようです。
とはいえ、
普段は町名や通り名で言い表していたみたいだけど。



ふたつめ、兄さんへの報告。

第11章
順慶町・安堂町・塩町・長堀の巻
三 順慶町の店々、その他のこと より
 丹平と小大丸の向かいに小倉屋があった。平泉平右衛門、大阪落語の絶品『三十石夢通路』に伏見中書島のげん妻が勘六さんに名代のビンツケをねだるあの小倉屋である。その六男が小大丸に養子に入り先代(八代)白井忠三郎さんになった。風俗は流れる風の如く、竹の皮に包んだあのなつかしのビンツケも、小倉屋も共に今はない。
 船場漫歩が思わずも島の内にまで足をふみいれたが御許し願いたい。
 明治期の順慶町はまた憲兵屯所があるので有名であり、塀ごしのその桜が知られていた。

『船場』(P410 ミネルヴァ書房)


イシハラ兄貴の母方が
このビンツケ=鬢付け油やの「小倉屋」さんである(驚)。
船場が南は長堀までとしていたようなので
現在の心斎橋筋・大丸さん(小大丸)のあたりは島ノ内になるよう。


心斎橋筋については、
第10章 南船場の筋々
八 心斎橋筋の本屋 より
 後年呉服屋の櫛比する所となるが、当初はそうでなかった。また維新前の繁華は寧ろ心斎橋筋北詰から北方を主としていた。その頃の心斎橋筋は「松屋町や菓子屋(かしんや)寺町や坊んさん」とならび称せられた本屋街で、五十何軒もの書肆が軒をならべていた。
 『増補難波丸網目』には「北浜より長堀までの内ぬり物屋、書物屋、古道具屋、経師や、琴三味線、飾りや」が多かったとある。相当古くからあったらしく、馬琴が心斎橋筋の書林に宿したというのは心斎橋筋北詰二丁北にあった秋田書林であった。

『船場』(P378 ミネルヴァ書房)
 

というわけで、イシハラ兄貴が「本」と「繁華」に近づくのは
もはや定められたことかと妄想しつつ…(勝手にすいません)。











この記事へのコメント

アニキ
2015年10月06日 15:07
ぬほっ!やっぱ離れられませんかぁ(兄貴)
あおやま
2015年10月14日 11:33
兄貴、さだめでおます!笑

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